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様々なギリシャ関連書籍が出版された2024年は、書籍についても実りある一年であったことは間違いない。今回GreeceJapan.comでは、今年1月末に日本語訳を担当した『現代ギリシア詞華集』を上梓した福田耕佑氏にインタビューを敢行。興味深いお話を伺った。
インタビュー:Junko Nagata
2024年ギリシャ・日本文化観光年は、あなたにとって非常に実りある一年であったのではと思います。この枠組みの中で、あなたの翻訳により4冊の書籍が出版されましたが、さらにもう1冊が近日中に発表される予定となっています。あなたの翻訳を通じてギリシャの素晴らしい作品の数々を日本語で読む機会をいただき感謝いたします。
そこで、あなたがニコス・カザンザキスに関する博士論文を書籍化した『ニコス・カザンザキス研究-ギリシア・ナショナリズムの構築と処方箋としての文学・哲学』から、最新刊である『ギリシア詞華集』まで、それぞれの書籍について簡単にお話いただけますでしょうか。
インタビューの機会をいただきまことにありがとうございます。2024年ギリシャ・日本文化観光年の枠組みの中で、数点の書籍を刊行し、日本語で日本の読者の皆さんに対してギリシア文学の作品を味わう機会を提供できましたことに非常に感謝しております。
まずは、拙著『ニコス・カザンザキス研究-ギリシア・ナショナリズムの構築と処方箋としての文学・哲学』でございますが、こちらは翻訳ではなく、京都大学に提出した私の博士論文を改稿して出版したものになります。「カザンザキスと東方世界の出会い」をメインテーマとし、ギリシア哲学者・西洋哲学者としてのカザンザキスが自分の思想の枠組みの中でどのように日本を含む東方を理解したのか、そしてこの東方の理解がどのように彼のギリシア理解に影響を与え、ステレオタイプ的なギリシア理解を乗り越えていったのかということを論じました。
次にアナスタシア・マルゲティさんがお書きになった『プラトン 魂と(詩と)高慢 矛盾の弁証法(五十七の警句)』を日希対訳で出版いたしました。こちらはプラトンの哲学を十七音節で構成される「ギリシア俳句」で表現した意欲的な作品であり、この作品の存在を知った時は「いつか翻訳してみたいなぁ」と思ったのですが、まさか著者本人とつながって本当に翻訳を出すことができると思っていなかったので、個人的にはとても印象深い作品です。
『家族の墓』は、ギリシア語とトルコ語で書かれた小説で、2021年にトルコの重要な文学賞である「オルハン・ケマル賞」を受賞した作品です。コンスタンティノープル(イスタンブル)に出自を持つギリシア人共同体というマイノリティー家族の物語を描いた作品です。著者のイラクリス・ミラス先生はギリシアとトルコで両国の外交や政治、そして文学の授業を歴任された先生ですが、本人もトルコで生まれ育った経歴を有している、この物語の当事者になります。
最後に、『現代ギリシア詞華集』は、2010年から2022年までギリシアで国家文学賞詩賞を受賞した詩人たちの詩歌を収録した、現代ギリシア版「勅撰和歌集」(?)です。この詞華集は今のギリシアの詩的創造の「マインド・マップ」であり、各々の詩人たちの個性を通して今の「ヘレニズム」が何に関心を持ち、過去をどのように受け入れてこれからどのような歩みでギリシア語を進化させていき、そしてどこに向かおうとしているのかを示してくれています(翻訳者の技量は棚に置く)。
あなたはギリシャのオルガ・ケファロヤニ観光大臣の日本公式訪問を記念して出版されたカザンザキス著の旅行記『Ταξιδεύοντας-Ιαπωνία(カザンザキス・旅する‐日本)』を翻訳されました。
カザンザキスはギリシャ系アイルランド人のラフカディオ・ハーンに次いで日本について記述した二人目のギリシャ人です。多くのギリシャ人は彼のこの旅行記から初めて日本について知りました。この作品の中でカザンザキスが「日本ほどギリシャに似た国は他にない。古代ギリシャの最も栄華を極めた時代を思い起こさせてくれるような国は世界中どこにもないであろう」と書いたことは非常に興味深いことです。
あなたが翻訳されたこの旅行記についてお話ください。
本作品はカザンザキスが1935年に日本を訪れた体験をもとに記述した新聞記事が元になった作品です。関門海峡から瀬戸内海を通り、神戸の街に降り立ってからは大阪、奈良、京都、鎌倉、東京と旅をし、当時の日本に関して観察に基づき多くの記録を残してくれました。
まず、出典が明らかでないものが含まれるにせよ、日本の詩が多く収録されている点が目を引きます。これはカザンザキスが執筆した他の旅行記と比較しても『日本旅行記』に特異なことです。明らかにその場で教えてもらった詩をメモして、それに訳をつけたのではないかと思えるものも見られますが、古典的な和歌集から引いた詩から同時代人の与謝野晶子や明治天皇の作品にまで触れており、ここまで日本文学に関心をもっていたんだと私個人は感心しました。
特に私が興味をもったのは、カザンザキスが日本をどのように理解しようとしたのかということであり、それは単に異文化体験がしたかったということではなく、彼の思想の枠組みの中で歴史が動いている場所として日本と東アジアを捉え、日本を彼の哲学と文学の言葉遣いで描き、そして単に異質なものとして排除したり例外としたりするのではなく、自分の思想の中に日本を吸収したのだということです。特に「日本ほどギリシャに似た国は他にない。古代ギリシャの最も栄華を極めた時代を思い起こさせてくれるような国は世界中どこにもないであろう」をリップ・サーヴィスではなくどれほどカザンザキスが本気で書いたのだろうかということは私が一番真剣に取り組んだ関心事の一つです。我田引水にはなりますが、この点に関しては拙著『ニコス・カザンザキス研究-ギリシア・ナショナリズムの構築と処方箋としての文学・哲学』をお読みいただけましたら幸いです。
あなたは、意欲的な編集が印象的なアナスタシア・マルゲティ氏の著作『プラトン 魂と(詩と)高慢 矛盾の弁証法(五十七の警句)』も翻訳されましたが、この本についてお話ください。
私にとってこの作品のインパクトは大きく二つありました。それは、プラトンは『国家』で詩人追放論を唱えたことで知られているわけですが、あえてマルゲティさんが詩歌の形でプラトンの哲学を表現しようとしたことです。そして、そこで選ばれた詩歌の形式が日本文学に由来する「俳句」だったということです。
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私は大学時代に西洋哲学史を専攻し、「いつ終わんねん」と思うぐらい長い長い説明の文章を何度も読んできましたが、たった十七音節という最小単位の形式は「哲学」なる営みが展開されてきた叙述形式と真逆のもののようにしか思えず、昔と今で詩の形式的な意味は違うとしても、表面上詩人によい評価を与えなかったプラトンに対して詩という形式を、しかも日本というどえらい異文化の詩をぶつけるなんて、「どんだけとがってんねん」と初めは率直にそう思いました。
詩を編むという営みは極めて個人的な営みでしょう。しかしこの作品で展開されるのは、性的(sexuel)なことと内面的なことを含みつつ私とあなた、個人と社会、そして歴史、「我と我等」の間の調和の戦いです。「個」の時代だと言われて久しい昨今は「自己責任」という言葉もよく聞かれるようになりましたが、「我と我等」の「我と彼等」の問題は古来より私たちの深い関心事であり続けています。ここでは「我等」の要素としてプラトンの思想を下敷きに、やはり同様に「我等」の要素としてギリシア神話、古代ギリシア、キリスト教とビザンツ時代のギリシアがモチーフとして散りばめられています。ここに、さらに日本という要素が加わって来るんです。さて、この日本は果たして私たちから見て「彼等」の「我等」を論じるのにふさわしかったのでしょうか?
この難問に本翻訳では挑戦してみたつもりです。特に本書のブックデザインを担当してくださった辻村様と京緑社編集部様と協議を重ね、日希対訳、縦書きと横書混在、前から読めば日本語、後ろから読めば(なるべく)ギリシア語の書籍になるように、新しい書籍作りを試みました。この対訳版においては、プラトンを引き受けつつ、マルゲティさんのオリジナル、私の翻訳、編集のブックデザインという複合的方法によって新しい「我等」を作り上げようと努力しました。多くの要素が接ぎ木されていますが、一つ一つの個性は混ざり合って消失することなく自己を主張しつつ、全体でプラトンを表現しているはずだと信じています。
マルゲティ氏の著作に続き、あなたの翻訳によりコンスタンティノープルのギリシャ人をテーマにしたイラクリス・ミラス氏の小説『家族の墓』が日本で出版されました。これは非常に興味深いテーマでしょう。なぜならギリシャ人は長い間現在のトルコの地に住み、トルコ人がやって来てこの地に定住するより前からギリシャ文明が存在していたことを示す様々な記念碑が残っているからです。
あなたが翻訳されたこの小説についてお話ください。
コンスタンティノープルのギリシア人やポントスのギリシア人に興味をもったきっかけは結局のところ、カザンザキスと東方、日本に関する研究の延長線上にあるんだろうと思っています。ギリシアと西洋の関係は自明視されており、ギリシアと東洋の関係を考えていく中で、今はマイノリティーとなってトルコというギリシアから見て東洋で生きるギリシア人がギリシアとトルコをどう考えているのだろうということは、やはり同じ主題に位置することだろうと思っています。
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本書との出会いは、2021年にとてもマイナーなギリシア語のニュースサイトで本作品がトルコでオルハン・ケマル賞を受賞したことを伝えるニュースを読んだ時です。私は2019年の夏からギリシアに居住しており、2020年7月にアヤ・ソフィアがモスクになったことをテッサロニキで知り、その時のギリシアでの反応をじかに見ていたので、2021年にトルコにおける最重要な賞の一つであるオルハン・ケマル賞をあの街に起源を持つギリシア人マイノリティーのアイデンティティーに焦点を当てた作品が受賞したことに吃驚しました。これが直接のきっかけとなり、これまでのカザンザキス研究を通して「ギリシアと東方」という主題に関心があったので、この小説を研究して訳してみようと思うようになりました。
本小説はギリシア人があの街に住み続けてきて、そこを故郷とするギリシア人が今尚当地に存在することの重要な証です。そして、故郷の帝都においても外国だが同胞の国であるギリシアにおいてもマイノリティーとして生きる自分たちのアイデンティティーを描き出し、そして両国の過去の遺恨を乗り越えていくために未来のバトンを後の世代に渡そうとしているように思います。この点で、ギリシアやトルコと言うことを越えて私たちも学ぶことのできる点が多い作品だと思います。
今年1月31日に『現代ギリシア詞華集』が出版されました。この書籍について、またこの書籍で紹介された現代ギリシャの詩人についてお話いただけますか。彼らはノーベル文学賞を受賞したギリシャの偉大な詩人セフェリスとエリティスの作品の流れを受け継いでいるのでしょうか。
セフェリスやエリティスの影響が直接どれほどあったのかということは今後の研究を待たねばなりませんが、西洋の他の国の偉大な詩人たちの作品を吸収しつつ先行するギリシアの詩人たちから深い影響を受けていることは疑いないと思います。収録された人数がそこそこの数になりますので一人一人を取り上げて論じることが大変難しいのですが、今回収録された詩歌からは、先行するギリシアの詩歌からの大きな影響を引き受けつつ、伝統的な形式に捉われずに新しい表現を生み出していこうとする貪欲さを感じました。時には言語上の構文や文法の正確さや伝統的な詩歌の韻脚や押韻といった技術の枠を飛び出て自分や世界を歌いあげようとする意志を感じました。特に意図的に文法と構文を破壊しているところ、通常でないイメージ同士の組み合わせを訳す時は大丈夫かなぁと思い怖かったですし、またどうしても翻訳では伝えきれない点でもあるのですが、この「我等」というべき形式面と内容面での伝統と自分らしさの葛藤は、マルゲティさんのプラトンの詩歌が日本の俳句を用いて伝統的なギリシアを描きつつ自分と社会を描こうとしたことに通底しているように感じます。
当然私も人間ですので、好みというものがあります。それでもなるべくどの詩歌に対しても平等に、詩人をなるべく原文に近い形で感じられるようにということを意識して翻訳しました。どうぞお楽しみいただけましたら幸いです。
最後に、今年2025年ギリシャ関連でどのようなご予定がおありかお教えいただけますか。ギリシャ文化に関する講演活動は継続されるのでしょうか。また、その他のギリシャ文学の翻訳のご予定はあるのでしょうか。
2025年2月28日は東京で『現代ギリシア詞華集』に関する講演を予定しております。詳しい情報は後程公開となりますが、そこではもう少し古代のホメロスやサッフォー、また中世ビザンツ詩と現代詩の関係についてお話しするとともに、原詩と翻訳の朗読を予定しております。どうぞ皆さまお越しいただけましたら幸いでございます。
ありがとうございました。更なるご活躍をお祈り申し上げます。
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