何が古代の医療を「科学的」に変えたのか?-古代ギリシアと医療・科学

光明差し込むアポロンの神域(筆者撮影/デルポイ遺跡)

第1回「感染爆発の末に何が起こるのか?-古代ギリシアと感染症」、第2回「古代の処方箋は「神頼み」?-古代ギリシアと医療・宗教」と古代ギリシャにおける病との闘いを描いた遠藤昂志の連載『歴史から読み解く人類VS病原体の死闘-古代ギリシアと医療・病気』もついに最終回!期待の第3回は「何が古代の医療を「科学的」に変えたのか?-古代ギリシアと医療・科学」と題して、祈りから科学・医学へと社会と人々が成熟していった様を描きます。

遠藤昂志『歴史から読み解く人類VS病原体の死闘-古代ギリシアと医療・病気』

第1回:感染爆発の末に何が起こるのか?-古代ギリシアと感染症
第2回:古代の処方箋は「神頼み」?-古代ギリシアと医療・宗教


「患者の健康と福祉を第一に考える」「人間の命を最大限尊重し続ける」「自らの人生を人類への奉仕に捧げることを厳粛に誓う」(筆者翻訳:*1)

これらは全て、現代医療倫理の根幹を成す「ジュネーブ宣言 (2017年版)」の宣誓文となります。世界医師会が全世界の医師の遵守すべき宣誓として制定したこの「ジュネーブ宣言」、実は、遠く時代の離れた古代ギリシアの医師-ヒポクラテスの誓いを、現代風にアレンジしたものなのです。彼の医学派が当時遵守した医療倫理は、現代の医療現場にも脈々と受け継がれており、古代ギリシアが現代医学の礎となっていることを示唆しています。

では、そのヒポクラテスとは一体何者なのでしょうか。第2部で、古代ギリシアの医療は宗教や迷信と固く結びついており、信仰による治療が一般的だったと解説しましたが、その流れを断ち切ったのが彼なのです。

◆医療を変えたのは、哲学

とはいえ、ヒポクラテスが一足飛びに科学的思考に目覚めたわけではありません。古代ギリシアには、医療を科学的にさせる下地が既に存在していました。それが、哲学です。ソクラテスやプラトン、アリストテレスの名は、哲学に興味が無くても、誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。古代世界の多数派は、神話を根底とする世界観を信奉する人々でしたが、彼ら哲学者たちはその常識を打ち破り、論理的思考や学術的知識を駆使して、世界を科学的に再定義していったのです。

哲学者には数多くの学派があり、諸説紛々でしたが、どれも古代とは思えないほど高度な知的水準を有していました。地球が球体であることも、天体が太陽を中心に回転していることも、地球の具体的な外周距離さえも、既にある程度予測されていました。最も科学を突き詰めた当時の学説は、レウキッポス&デモクリトスの原子論でしょう。宇宙には物質のみが存在し、その物質は非常に小さな原子によって構成されていると彼らは論じたのです。魂すらも原子で構成された物質であるとした彼らの学説は、神話的世界観が常識とされていた当時においても、知識階級を中心に広まりました。

さて、話をヒポクラテスに戻します。後2世紀にエペソスのソラノスという人物の書いた伝記によると、彼はコス島という医術で名高い島国に生まれ育ち、医学教育を受けるのですが、その時の教師の1人に、原子論を確立させた哲学者デモクリトスが挙げられています。信憑性はさておき、この記述は少なくとも、彼が原子論に影響を受けていたことを示唆しています。神や呪いが病気を引き起こすという当時の常識に彼が挑戦したのは、当然の帰結と言えるかもしれません。

◆現代とあまり変わらない?ヒポクラテスの医療

彼はギリシア各地を旅し、行く先々で起きた様々な病気の症例を克明に記録していきます。病気を「急性」「慢性」「風土病」「流行病」に史上初めて分類したのは、彼なのです。流行病の古代ギリシア語 ”ἐπιδημία”(エピデーミア)は、WHOが感染流行の定義とするEpidemic(エピデミック)の直接的な語源となります。

彼は病原体の存在まで想定することはできませんでしたが、疫病には季節性があり、汚染された水や空気に近付くと感染すると考えていました。発症した人間もこの汚染水・空気を発し、それに触れると感染するともされていました。接触・飛沫・エアロゾル感染のことを考慮すれば、あながち的外れではないと思いませんか?「あらゆる病気は特有の性質を有し、外部要因によって生ずる」(筆者翻訳:*2)という彼の言葉からは、もはや迷信や宗教的要素は見られません。

もしヒポクラテスが現代に生きていたとして、新型コロナウィルスによるパンデミックに直面したとしたら、真っ先に感染者を隔離し、患者には自宅や病院で人と接触せず安静にすることを求めたでしょう。彼の属する医学派は、身体の自然免疫力の回復を治療の第一義とし、静養や食事療法を重視したからです。これって、現在やってる対策とあまり変わらないですよね。

ヒポクラテスのモニュメント(福田耕佑氏撮影/ラリサ)

◆現代に受け継がれる古代の医師の「誓い」

ヒポクラテスは、非常に幅広い医療分野に関する著作を多く残しています。これらは「ヒポクラテス全集」として後にまとめられるのですが、大きく分類すると以下のような大別が可能になります。「」内が各著作のタイトル(*3)です。

  1. 医師の心構えについて:「宣誓」「医師の心得」「品位について」等
  2. 解剖学・生理学について:「解剖」「心臓」「肉質」等
  3. 疾患の診断について:「流行病」「内科疾患」「疾病」「予後」等
  4. 精神疾患について:「神聖病」等
  5. 外科的疾患について:「骨折」「脱臼」「頭部の損傷」等
  6. 産婦人科的疾患について:「婦人病」「子宮内における胎児の裁断」等

この全集にヒポクラテス以外の著作も紛れ込んでいる可能性は大いにありますが、それにしても古代でここまで科学的な医学書が残るということ自体、非常に驚くべきことです。「この著作に記載されている内容は、科学の発展した現在においても、そのまま適応可能なものが多く記載されている (*4)」という意見もあり、ヒポクラテスの先進性が分かります。

この内、医師の心構えについて書いた「宣誓」という著作が、冒頭に紹介した「ジュネーブ宣言」へと繋がることになります。当時の社会常識だった男尊女卑や奴隷制等、現代にそぐわないものを修正してはいますが、その骨子は変わりません。医療従事者は誰であれ、古代の医師に端を発するこの宣誓を遵守することが求められているのです。そういう意味では、現在新型コロナウィルスのパンデミックと闘っている世界中の医師たちは皆、ヒポクラテスの遠い弟子たちと言うこともできるかもしれません。

古代と現代。価値観や科学力もまるで違いますが、「患者を救いたい」という医師の想いはどちらにも存在していました。ギリシア各地を遍歴して治療にあたった古代の医師も、新型コロナウィルスと最前線で戦う現代の医師も、皆、ヒポクラテスの誓いを胸に刻んでいるのです。そして未来、いずれまた同じような事態が起きようとも、この誓いは決して消えることはありません。人類と病原体の果てしなき闘争の最中にあっても、ヒポクラテスの遠い弟子たちが、必ずや希望の道標になることでしょう。

― 完 ―

(注)
*1) The World Medical Association, “WMA DECLARATION OF GENEVA”, 2020年5月8日閲覧
*2) Georgios Pappas/Ismene J. Kiriaze/Matthew E. Falagas, “Insights into infectious disease in the era of Hippocrates”, International Journal of Infectious Diseases, 12, 2008, P349
*3) 著作名は全て次の資料を参照:梶原博毅「近代ヨーロッパ医学の科学的基盤 ―古代ギリシャの自然哲学者の果たした役割―」『人間と科学 県立広島大学保健福祉学部誌』8、2008年、P34
*4) 梶原博毅「近代ヨーロッパ医学の科学的基盤 ―古代ギリシャの自然哲学者の果たした役割―」『人間と科学 県立広島大学保健福祉学部誌』8、2008年、P34

 

遠藤 昂志
遠藤 昂志
1993年千葉県生まれ。法政大学国際文化学部卒。日本ギリシャ協会会員。古代史研究会会員。現在は大手メーカーに在籍。ギリシア神話をテーマとしたゲーム “God of War”シリーズの影響でギリシアが好きになり、古典ギリシア語・現代ギリシア語を独学で学ぶ。京都大学大学院にて開催の古代ギリシア碑文・弁論の研究会に参加中。日本ギリシャ協会の会報誌においては、ギリシア神話の神々についての解説記事を連載中。ギリシア語教室エリニカでは、ニコス・カザンザキス作品の翻訳活動に参加中。

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