広島市の中心部にある平和記念公園の一角に、その名も「平和の鐘」と呼ばれる梵鐘がある。世界中から訪れる観光客たちが切れることなく訪れるこの公園の一角、元安川を挟んで原爆ドームのちょうど対岸に建立されているこの鐘の傍らには、日本語と英語でつづられた案内板がその由来を訪れる者に伝えている。
しかし、ここを訪れ、鐘を撞く者のうち、どれだけの者がこの鐘に刻まれた銘文に気がつくであろうか。奇しくも東京オリンピックが行われた1964年(昭和39年)、遠くギリシャから世界各地を巡って運ばれた聖火が広島の地に運ばれたまさに同じ日の9月20日に落成の日を迎えたこの鐘には、平和を願う人々の切なる想いが込められている。
この鐘の建立を発願したのは元金沢大学助教授にして仏教学者の西村見暁氏。1962年(昭和37年)教職を辞した西村氏は、5か月余りに渡って世界各国の仏跡を訪問。帰国後広島の地に、全人類の心に平和の鐘を響かせんと梵鐘の建立を志したという。
当時文化財保護専門審議委員を務め、のち人間国宝に叙せられる鋳金家の香取正彦氏はその著書『鋳師(いもじ)の春秋』で、退職金などの私財を投じて鐘の建立に力を尽くす西村氏の熱意に打たれ、実費での梵鐘の製作を引き受けたと述懐している。
鐘が完成した1964年(昭和39年)3月末から程なくして、鐘、鐘堂、そして玉池の建立を実現するため同年5月13日に「原爆被災者広島悲願結晶の会」が結成され、会長には終戦後憲法の草案を著し、衆議院議員・文部大臣を歴任し、議員の職を辞した後には初代広島大学学長に就任し教育者として力を尽くした森戸辰男氏(1888~1984)が就任。また名誉会長には自らも被爆しながらも、広島市長として市の復興に一生を捧げた浜井信三氏(1905~1968)が、そして理事長には中国地方の仏教界の重鎮にして、当時の本願寺派広島別院輪番・小笠原彰真師が就任。県下から500人を超える人々が供した浄財は当時の金額にして500万円を超え、ここに鐘は現実のものとなった。
「平和の鐘」と称されるこの梵鐘は高さ1.5メートル、重さは1,200キロ。鐘には国境のない地図が描かれており、鐘の撞座(鐘を撞く部分)には原子核文様が、その反対側には鐘を撞く者が己の心をうつし出すため撞座と同じ大きさの円形が鏡として磨かれ、龍頭には平和の象徴・鳩があしらわれている。
また鐘の表面には、浜井信三・広島市長が記した「悲願」の文字とともに、森戸辰男・元広島大学学長が日本語で「自己を知れ」の文字を、ラルジ・メロトラ(LALJI MEHROTRA)駐日インド大使がサンスクリット語で「大無量寿経」の一節を、そしてアレクシス・リアティス(ライアティス)駐日ギリシャ大使が古代ギリシャの格言として今もなお各地に刻まれる「ΓΝΩΘΙ ΣΑΥΤΟΝ(汝自身を知れ)」を記したものが、それぞれ浮彫として刻まれている。
古のギリシャの賢人らが遺した言葉が、当時のリアティス・駐日ギリシャ大使により梵鐘に刻まれたそのいきさつについて、鐘の建立を発願した西村見暁氏は詳しく語っていない。鐘の落慶式から2年後の1966年(昭和41年)5月に発行された会報『平和の鐘』には、ただ「広島の悲願にたって、一切の核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとして鐘・撞堂・玉池の建立を万人の心と浄財の結晶としてなし遂げようと…(以下略)」と会の発足の趣旨が記されるのみである。しかし世界各地の仏跡をはじめ、ギリシャにも訪れ東西の思想に深く影響を受けた氏の切なる願いが、リアティス大使の心を動かし、祖国の賢人が遺した至言を鐘に刻ませたのではなかろうか。
あれから50年あまりが経ち、再び東京でオリンピックが開催されようとしている今、あらためて「ΓΝΩΘΙ ΣΑΥΤΟΝ(汝自身を知れ)」の一節に想いを馳せ、その音色に耳を傾けてみよう。そこに込められた祈りを今一度心に刻み、新たな世代に伝えていくために。
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Text-video-photos: Junko Nagata / GreeceJapan.com