新型コロナウイルス感染症の感染拡大によりオンラインでの開催となった2020年から1年―静岡の演劇の中心地・駿府城公園で毎年開催されている「ふじのくに⇄せかい演劇祭」に、2021年5月、SPAC(公益財団法人静岡県舞台芸術センター/Shizuoka Performing Arts Center)の芸術総監督を2007年から務める宮城 聰(みやぎ さとし)氏演出のソポクレス作のギリシャ悲劇『アンティゴネ』が帰って来た!
GreeceJapan.com過去記事「ふじのくに⇄せかい演劇祭」
2017年にはアヴィニョン演劇祭でアジア圏の劇団初のオープニング作品に選ばれ、また2019年アメリカにおいて日本文化を海外に向けて発信する取組「Japan 2019」公式企画として上演され絶賛されたほか、米タイム誌2019年ベスト演劇10にも選出された『アンティゴネ』について、GreeceJapan.comは演出の宮城 聰氏に演劇祭の会期中静岡で独占インタビュー。同作品について、コロナ禍のもとでの演劇の在り方についてお話を伺った。
インタビュー:永田純子 (Junko Nagata)
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、昨年2020年の静岡公演が中止となり、その代替手段として2017年のアヴィニョン演劇祭での公演がオンライン上映されてから一年振りに公演が実現しましたが、その感想についてお聞かせいただけますか。
中止になった後、あらゆる演劇がしばらく上演できなくなって-演劇だけでなく、生で人間と人間が顔を突き合わせる、肉体と向き合うって言うんでしょうか、そういう時間が非常に乏しくなって。こんな毎日を一年くらいみんな暮らしているわけなんですけれど、その中で、どうやら人間というのは生身の肉体と向き合っていないと、心の栄養分みたいなものが足りなくなってしまって、例えばビタミンが足りなくなるのと似たような感じで、精神と肉体のバランスがうまく取れなくなってくる-そういうことを、皆さん経験したんじゃないかと思うんです。
だから僕としては、今こそ何としてもライブ、つまり肉体のある演劇っていうのを観ていただきたかったということが一つ。もう一つには、昨年の公演が中止になった時、いわゆる三密を避けなければいけないっていうことが言われた時に、演劇って三密そのものじゃないか、三密を避けるってことは、演劇なんてもう上演できないってことじゃないかと、一時的には絶望感に襲われたし、多くの演劇人がそうだったと思うんです。ただ、その後で冷静に考えてみると、ギリシャ悲劇っていうのはまったく三密がない。ギリシャ悲劇の当時の上演を思い起こしてみると、密というものがあるとしたら唯一コロスがその可能性はありますが、ギリシャの劇場に行って、そこで実際に三人くらいの俳優がプロスケニオン(舞台)に立っていた絵柄を、オーケストラ(合唱隊用の平土間)に15人くらいのコロスがいた絵柄を想像してみると、三密のどれひとつとしてなかった。野外だから密閉されていないし、役者と役者の距離が非常に開いていて、しかも役者はお互いを向いてしゃべってはいない。役者は常に観客を向いてしゃべっている。さらにギリシャ悲劇の場合は仮面を着けている。冷静に考えてみると、ギリシャ悲劇っていうのは、まさにウィズコロナ様式、どんなに疫病が流行っても上演できる形式になっている、ということに気がついたんですね。
その時、ああそうか、演劇っていうのは実は、疫病とともに歩んできたんだ、疫病のない時代の演劇っていうのは、むしろここ100年あまりの特殊なもので、我々はそれを演劇だと思い込んできたけれども、それより前の演劇っていうのは、疫病とともにある演劇だったんだということに気づかされた。そういうことを考えてみると、ギリシャ悲劇の逞しさっていうんでしょうか、そのことに再び気がつくことができて、演劇っていうものが持っていた力強さを再発見した、というようなことも起こりました。
ですから今回は、生の肉体と出会っていただきたいということとともに、演劇っていうのは意外にしぶといんだということも実感してもらえればいいな、と思っています。
今回の公演では、演者がマスクをつけていたことが印象的でしたが。
ああいったものを付けて、例えばテレビドラマのような、表情に依存する芝居はさすがにできませんよね。だけどギリシャ悲劇なら、そもそも仮面を付けて上演していたくらいですから、表情に依存しない。言葉の力とか、身体全体から発せられるエネルギーとか、そういうものによって劇が成り立っているから、ちょっとやそっと、顔を覆ったところで演劇が損なわれない。こういうことも、ギリシャ悲劇のしぶとさ、力強さですね。
SPACの『アンティゴネ』をギリシャで上演されることを考えられたことはおありですか。
ギリシャでは、SPACの『アンティゴネ』とは全然演出が違うク・ナウカ版の『アンティゴネ』をデルフィの古代競技場で上演したことがあります(*2004年)。その時、あの場所に身を置くことによって、ギリシャ人の考え方っていうのが少しわかった気がしたんですよね。「神よ照覧あれ」って言って天を仰ぐ-これは日本の気候風土では決して起こらないことだけれども、ギリシャにいると、例えば日陰とか石の影とか、そういうところにたくさんのちっちゃな神様が潜んでいるっていう日本風の考えではなく、多神教でたくさん神様がいるけど、みんな空にいるって思うようになる。その感覚はギリシャで芝居を上演しているとつぶさにわかりました。特にデルフィは自然の中ですから、本当にそういう感覚なんですよね、天を仰ぐ、という。
SPACの『アンティゴネ』は、古代ギリシャ悲劇に日本の能を入れたような感覚がある、二つのまったく違う文化が共存して、新しい何かを生み出しているように思われるのですけれども、二つの文化を一つに結び付ける努力、試みをされておられるのでしょうか。
僕は、キリスト教以後のヨーロッパの文化のフィルターを通さずに、ダイレクトに古代のギリシャ悲劇を眺めると、意外に日本の古典劇に似ているって感じているんです。つまり、今のギリシャ人も含めてヨーロッパの方々が、ヨーロッパの演劇の歴史を通してギリシャ悲劇を観る時のギリシャ悲劇のイメージと、ヨーロッパの演劇史というフィルターを通さずに、アジア人としていきなりギリシャ悲劇を観た時のギリシャ悲劇のイメージは、かなり違うんだろうと思うんです。
僕は、アジア人として、ダイレクトにギリシャ悲劇というものを見てみると、ずいぶん日本の古典劇と似たところがある、特に能と似たところがある、というふうに思います。それは、仮面劇だということもあるけれども、あるいはシテ一人主義っていうのかな、一人の人がたくさん喋る、そういったこともある。けれど、もっと根底にあるものとして、死者をして語らしめる、死んだ後を知っている者が、生きている人間について語るというような形が能にはある。つまり現世、この人生ってものを相対化しているんです。
ふつう人は一生の間、コップの中で生きている。「コップの中の嵐」って言うくらいで、どの人もコップの中にいて、生きている間はそのコップの中から出られない。だからそのコップの中での出来事を全世界での出来事のように思って、そこに囚われてしまうわけですけれども、死後の世界から人生を見ると、生きている頃にものすごく大きなことだと思っていたことが、本当に深い悩みの種だったことが、死後の世界から見ると、取るに足らないことのように見えたりもする。でもそれが、演劇の効能っていうんでしょうか、現代でも続いているように、人間がどの人も自分の身近な悩みに汲々(きゅうきゅう)としている中に、演劇を観ることによって「あ、自分の悩んでいたことって、結構ちっぽけだったんだな」って思ったりする。
そうしたことが演劇の効能だと思うんですけれども、人生というものを相対化できる。ギリシャ悲劇にはとてもそういう力がありますよね。何かものすごく大きな物差しから、ひとりの人生を見ている。ああ、人間っていうのはこんなちっぽけなことで悩んだり、こんなちっぽけなことで殺し合ってしまったりするんだなあ、と。でもそれは、世界全体から見れば、例えば神の目から見れば、非常にちっぽけなことだと。そういうふうにして、実人生っていうのを相対化してくれる力がある。「死者の目」っていうのか、実人生を越えた目って言うのか、あるいは神の目と言ってもいいかも知れないけれども、その実人生のスケール感を越えたところから人間を相対化しているという意味では、能もまったくそういうものなんです。
能は死んだ人が生きている頃を思い出すというかたちになっていますけれども、ひとりの人間にとって、生きているってことはその人の一部に過ぎないと、こう考えることによって、非常に気が楽になる。自分自身は日々汲々として生きているわけだけれども、でもこの実人生っていうのは自分の全人生の中では実は一部分に過ぎないんだと考えると、とっても気が楽になってくる。ギリシャ悲劇にはそういうところがあるわけです。すごく頑張った人も、ひどい結果に見舞われたりするけれども、神意、神様の考えというのはどうせ人間には分からない。人間が努力しても結局それは神から見れば単なる傲慢に過ぎなかったりして、虚しい結果に陥ったりする-なんていうペシミスティックな結論を提示してくるんだけれども、それは単に人間が生きていることについて悲観するっていうことじゃなくて、自分が囚われている悩みっていうものがちっぽけなものなんだ、という感じにつながるものなんです。だからギリシャ悲劇には、悩みから解放してくれるような浄化作用があるんですよね。
そういう点は日本の古い演劇にも共通していて、だから能を持ち込んだというよりも、ダイレクトにギリシャ悲劇を眺めると、とっても似ているなと。似ているから、おのずと僕らが知っている手法を持ち込むこともできる。例えば今回の『アンティゴネ』で言えば、盆踊りを持ち込んでいますけれども、その手法としては、能とまったく考え方が同じで、盆踊りで、生きている人間と死んだ人間を同列に並べて、何の区別もなく舞台上に置いてみる。それによって浄化が、カタルシスがもたらされる-というわけで、ことさらヨーロッパの演劇にアジアの手法を持ち込んだのではなく、ギリシャ悲劇を虚心に眺めたら、アジアの演劇と結構共通しているじゃないか、というのが僕の感覚です。
盆踊りについて仰いましたけれども、能だけではなく、日本人として、自分たちの文化をベースにしたところから『アンティゴネ』を眺めた時に、盆踊りのような仏教的な話も、能の考え方と一緒で盛り込まれている、というのがとても面白いと思います。
ギリシャ悲劇をヨーロッパ演劇史のフィルターに通すと、個性のある主人公が自分の意思を言葉にしていく。自分はこう考えるんだ、ということを言語化していく。そして、個性のある主人公がそれを徹底して行えば、例えばクレオンならクレオンの立場で自分の考えを言語化し、アンティゴネはアンティゴネで自分の考えを言語化し、この二つの論理が、言葉と言葉の戦いとして、舞台上で繰り広げられる。ヨーロッパの演劇史から見ると、ギリシャ悲劇はそこがポイントになってくる。
でも、虚心坦懐にギリシャ悲劇のテキストを見ると、そういう部分もあるけれども、もう一方で、誰の意見というわけでもない、誰の考えというわけでもない-「普通みんなこう言ってるよ」とか「みんなこれまでこう考えてきたけどなあ」っていうような、誰の意見というわけでもない内容が、半分くらい含まれている。それはコロスの喋っている部分ですけれども、そういうところは日本人にはものすごく身近なものですよね。つまり日本人の喋っていることの多くはその人の独自の意見じゃなくて、「前からみんなこんなふうに言ってたよ」とか「大体こんなもんでしょ世間は」っていう、そんなことを喋っている。
ヨーロッパ人にとっては、その人の意見でないことをその人がわざわざ言語化するっていう方が珍しく感じるかも知れないけど、日本人にはそういうことは当たり前ですよね。別に自分の考えじゃないけど、でもまあこういうことになってるから…なってる、と自分で言ってみたりする。僕はそれは諺(ことわざ)みたいなものって言ってるんだけれども、諺っていうのは誰の意見でもない。僕自身も、「早起きは三文の徳」っていう時もあるし、そうじゃない時もあるけれど、でも「早起きは三文の徳」って言われてるからなあ…と思ったりもする。つまり、誰が言っている意見でもないが、集団として、共同体として共有されている言葉、ギリシャ悲劇の台詞の半分近くはそういう台詞なんですね。それが「スタシモン(合唱隊の歌・舞踊)」と言われている部分ですけれども、そのスタシモンと言われている、諺みたいな部分の言葉をよくよく見ていくと、例えば日本の河内音頭とかですね、そういうものととても似ているってことに気がついたんです。つまり、盆踊りの時に歌われている歌の歌詞というのは、意外に時事的なネタが入っていたりもする。誰も意味が分からない呪文みたいな歌詞ではなくて、案外喫緊な内容が含まれていたりする。だからといって、それが歌っている人の意見というわけでもないし、踊ってる人ひとりひとり、個性というものが消えて、みんな大体同じようなことを考えたり思ったりしている。そういう中で、みんなの思っていることを、歌詞に、言葉にしている。日本の場合、演歌なんかも大体そういう構造だと思うんです。誰かの意見、誰かの考えを言葉にしてるわけじゃなくて、みんなが思ってることをたまたま誰かが代表者として口に出している。
ギリシャ悲劇のスタシモンというのは、そういう言葉だと考えると、本当に盆踊りととても似ている、と。もちろんその古代のギリシャ悲劇でコロスたちがどんな踊りを踊っていたのかの資料は残っていませんけれども、言葉の内容から考えると、日本の盆踊りと案外似ている。それなら、日本の盆踊りの振りをそこに当てはめてみても、そう的外れじゃないだろう-ということで、間間に、スタシモンと言われる部分に、盆踊りを入れてみたんですね。ですから、ヨーロッパの演劇に日本の古典芸能、伝統芸能、民俗芸能を持ち込んだというわけではなくて、ギリシャ悲劇のテキストをよくよく見ているうちに、これって盆踊りじゃないか?と気がついて、そのままやっている-そういう感じなんですね。
宮城先生は、1995年のシアターオリンピックスで鈴木忠志先生とギリシャ悲劇『エレクトラ』を演出されてから数多くのギリシャ悲劇を演出されてこられましたが、そもそもギリシャ悲劇に関わりを、興味をもつようになったのはどういうきっかけからでしょうか。
僕は、自分が芸術の受け手として、享受者として、鑑賞者としては、どのジャンルのものも好きだったんです。ただ表現者としては、ある意味で偶然、演劇を選んだわけです。そうして演劇の表現者になってみた時に、他のジャンルの芸術であれば国境を越えることは難しくないのに、演劇は言葉の壁に阻まれてなかなか国境を越えられないっていうところが、とても悔しかったんですね。
例えば自分自身が子供の頃から聴いてきた音楽とか、見てきた絵画とか、あるいは読んできた小説とか、観た映画とかを考えても、日本のものと外国のものとそんなには分けていなかったし、日本の絵画の方をたくさん見ているなんてこともなかった。ところが、こと演劇に関して言うと、観るチャンスのあるもののほとんどが日本語の劇だし、自分たちが上演しても観てくれるお客さんはほとんど日本語が分かる人、つまり日本人というか、日本にいる人。非常に高い壁によって切り取られているんですね。表現者の側も観客の側も、阻まれているんです、言語という壁に。
このことがとっても悔しくて、何とか、演劇でももっと普遍的なもの、ユニバーサルなものを作りたいなと思ったんです。外国の演劇も享受したいし、自分たちの作品も国境に関係なく享受してもらいたい、と考えた。じゃあ、どういう演劇はドメスティックになってしまい、どういう演劇ならばユニバーサルになり得るのか、と考えていった時に、ギリシャ悲劇というのが、非常に有望な畑に見えたんです。というのは、ギリシャの文化、ヘレニズムは、ヨーロッパ文明の源泉の一つになっていると同時に、キリスト教以前の文化であって、必ずしも日本人にとって遠いとは言えない。もうちょっと別の言い方をすれば、キリスト教以後のヨーロッパ文化と我々日本人の文化とを比べて、どちらがよりギリシャ悲劇の感覚に近いのかと考えた時、我々の方が明らかに遠いとは言い切れない。ヘレニズムがヨーロッパの文化の源泉になっているという意味では、ギリシャ悲劇はヨーロッパ人にとって自分たちのホームみたいな感覚があるかもしれないけれども、ギリシャ悲劇にはキリスト教文化のバイアスがかかっていないものだから、アジア人にとってもダイレクトに触ることができる、ダイレクトに掴むことができる。「私たちのもの」としてそれを取り扱うことができるんじゃないか。こうした観点から、ギリシャ悲劇は我々がユニバーサルなものをやる時の、有力な素材になるんじゃないかと考えたんです。
これまで『エレクトラ』『アンティゴネ』『王女メデイア』など数々のギリシャ悲劇を演出されておられますが、SPACでこれ以外のギリシャ古典劇を手掛けようと考えられたことはありますか。
ギリシャ悲劇をやっていると、本当に人間というのは2500年間ちっとも変っていないなと、当たり前かもしれないけれども、改めてそのことに驚かされるんですよね。2500年前に人々が悩んでいたこと、それはちっとも変っていない。例えば戦争だとか、差別だとか、あるいは宗教的な価値観の違いだとか。親子の断絶だとか、どれもこれも今日の人間たちが悩んでいることは既にギリシャ悲劇に書かれている。そういう意味では、例えば過酷な環境に置かれている人たちが、自分たちにとって身近な演劇をやろうと思った時に、例えばギリシャ悲劇の『トロイアの女たち』をやってみると、一番自分たちに身近に感じられる、ということは世界でよくあると思うんです。
今後世界は一層厳しい状況になっていくことが予想され、日本人の生活も、今より楽になっていくということはないと思うんですが、そんな中で、様々な苦しみの中でのたうち回っている人々にとって、ギリシャ悲劇が、人間は2500年前から同じようなことで悩んでいたんだという、一種の救いのようなものとして浮上してくるんじゃないかなという気もするんです。僕らは、これまでやったものをもう一度見直して上演することもあると思うし、また別の作品を上演するということもあると思います。次、何をやりたいって決めているわけじゃないんですけれども。でもさっき申し上げたように、我々の環境は厳しくなっていると思うので、そんな中で、ギリシャ悲劇がいよいよ浮上してくるってことが起こるんじゃないかなという感じはもっています。
これまで「ふじのくに⇄せかい演劇祭」では外国の芸術家も招へいして公演が行われていますが、ギリシャから劇団を招いて公演を行う予定はありますでしょうか。
鈴木忠志さんがSPACの芸術総監督をされていた頃は、テオドロス・テルゾプロスさんというギリシャの演出家と鈴木さんとがとても仲がよくて、テオドロスさんの作品を何回も招へいされています。僕自身もテオドロスさんの作品を何本も観ました。ただ、僕自身はまだギリシャの作品は招へいしたことはないんです。ギリシャ悲劇自体はイスラエルから招へいしたことがあるんですけれども、ギリシャのアーティストを直接まだ招いたことはないですね。ギリシャの演出家で知り合った人はいますが、まだその人たちの作品を生で観たことがないし、フランスで活躍している人の中にギリシャ人がいたり、アメリカでギリシャ出身の方と出会ったこともありますが、ギリシャの劇団をと考えると、まだ「この作品を呼んでみよう」というものに出会ったことはないんです。僕らもギリシャ公演をしてみたいと思いますが、その時にギリシャの作品も観ることができれば交流になっていくので、そんなことが出来たらいいなと思っています。
2007年に宮城先生がSPACの芸術総監督に就任される前は、鈴木忠志先生が長い間総監督を務められていましたが、鈴木先生から総監督のバトンを受け継がれて、ご自身はSPACで何をやっていこうか、芸術総監督として何を実現していこうかと考えておられますか。
鈴木忠志さんは、SPACを世界レベルの劇団にする、世界レベルの作品を作れる劇団にするということに10年間力を注がれてきました。僕はそれを受け継いだ時に、その世界レベルというレベルの頂(いただき)、高いところはそのまま維持して、次にすそ野を広げようって考えたんですね。頂上は高く、でもすそ野も広く、っていうふうに。日本だと、すそ野を広げているところは頂上が低いということがよくあったし、頂上が高いところは分かる人だけ分かるっていうような感じになりがちだけれども、そこを富士山型に、頂上は高いけれどすそ野を広げることができたらいいなと。日本の浄土真宗は開祖が親鸞ですけれども、その後蓮如が出てきてすそ野を広げた。だから、鈴木さんが親鸞だとすれば、僕は蓮如の立場なのかなと思って。すそ野を広げることによって、静岡全体で、アーティストも静岡から育っていくことで、頂上の高さが維持されていけばいいなあと思っています。
「ふじのくに⇄せかい演劇祭」を一昨年、今年と回った時、その頂上が『アンティゴネ』だとして、先生の言われる「すそ野」である様々な芸術が駿府城公園で披露される中で、それぞれの方がそれぞれの形で芸術を楽しむ姿が印象的でした。宮城先生の「頂上は高く、すそ野は広く」という言葉が現れているように思います。
ありがとうございます。もちろん、アーティストに上下があるわけじゃないんですけれども、お客さまにとって敷居が低くすっとアクセスできて、もっと上を見たいと思う人にはそういうコンテンツも用意されている、という-僕たち自身も色んなタイプの作品に係わっていますが、『アンティゴネ』を上演しつつ、時には幼稚園に行って子供たち相手の芝居をしたりもする。そういうふうに、チャンネルがたくさんあるというか、アクセスできる局面がたくさん用意されている、っていうふうにしていきたいなと思っています。
そうした試みが静岡で実現されているというのが、またとても印象的ですね。東京のような、何でも手に入るし何でも観られるというところでなく。こういう形は外国でもなかなかないように思いますが。
東京ほど大きくなってしまうと、もともと演劇が好きな人たちがもう、それだけでものすごくたくさんの数がいますから。ところが静岡くらいの規模だと、あらかじめ演劇が好きと自覚している人の数はそんなに多くないわけですよね。だからこそ、演劇をやる側、SPACの側としては、「演劇ってあんまり今まで観たことないけどなあ」という人や、「子育て中で劇場とかあんまり縁がないよ」という人、そういった人たちにも何らかの形で演劇に触れてもらって、また行ってみようかな、と思ってもらう。そういうふうにしていかないと、分母がもともとそんなに多いわけじゃないから、演劇のお客さんが広がらないですよね。だから、静岡くらいのスケールでやっている方が、地元の人たちがちょっとずつ演劇に触れて、少しずつ演劇が好きになっていくというリアルな手ごたえが、感じられるんですね。それがちょうどいいサイズなのかなと思います。
コロナ禍の影響で、ギリシャだけでなくそのほかの国々へ行かれる機会もないところですけれども、宮城先生が最後にギリシャに行かれたのはいつ頃でしょうか。
2019年の5月ですね。ただ、この時は演劇作品は観られなかったです。
ぜひ近いうちに、SPACの『アンティゴネ』をギリシャで上演していただいて、こんな『アンティゴネ』もあるんだよ、ということをギリシャ人に見せていただきたいと思います。
SPACの『アンティゴネ』をニューヨークで公演した時も、ギリシャ人のお客さんが観に来てくれました。翌日にも、どうしてももう一回観せてくれって言って、押しかけて来たんです。ギリシャの方でね、いたく感激されていました。
今日はお忙しい中長い間お時間をいただきありがとうございました。
『アンティゴネ』公演の成功をお祈りしております。