正保元年(1644)伊賀上野に生を受け、元禄7年(1694)10月病により大阪で世を去った俳聖・松尾芭蕉。彼が亡くなる直前の元禄7年5月に子の治郎兵衛と共に郷里の伊賀へ旅立つ際、見送りのために来た江戸の門人らと最後の別れを交わし、句を詠んだという旧東海道川崎宿-現在の川崎市八丁畷の地には、芭蕉の足跡をしのぶポケットパークと句碑がたたずんでいる。
その一つが、伊賀へと発つ芭蕉を見送った7人の門弟の句を刻んだ石盤と、22人の門弟の句が記された円柱が配置された「芭蕉ポケットパーク」だ。芭蕉の没後、300年以上の時を経た今、門弟らと別れを惜しんでひと時を過ごした旧川崎宿の「京口」(京都側の入り口)と呼ばれたまさにその地に建てられたこの小さな公園には、芭蕉の句からイメージされる麦畑に見立てた植栽や樹木の選定など当時に想いを馳せるための様々な演出が施されるともに、腰を下ろせるベンチも設置。句を記した円柱の裏側には飲料の自販機が設置され、芭蕉らが京口の茶屋で一息ついたように、現代、街を往く人々がひと時足を休めることができる。
ポケットパークの壁面には、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図『東海道分間延絵図』の川崎宿の絵図の写しが掲げられ、在りし日の旧東海道と旧川崎宿の様子を見ることができる。
また、芭蕉ポケットパークの向かい側、京浜急行の線路の傍らに設置されているのが、芭蕉の句「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」が刻まれた石碑だ。現在、川崎市内にはこの句碑を含め5基、神奈川県内には60基を超える芭蕉の句碑が建てられているというが、その中でも、実際に句を詠んだ地に建てられた碑は少なく、この句碑は大変貴重なものとされている。
門弟らとの別れを惜しんで詠まれた「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」を刻んだこの句碑は、芭蕉没後からおよそ130年あまり後の文政13年(1830)、芭蕉の道跡をしのんだ俳人・一種(いっしゅ)により、天保の三大俳人のひとりに数えられた一種の師・桜井梅室(さくらい ばいしつ)の揮毫を得て建てられたものという。
JR浜川崎線・京浜急行「八丁畷駅」からすぐのこの句碑の周囲には色とりどりの花々が植えられ、日進町町内会「芭蕉の碑保存会」によって、毎月10日・20日・30日と定期的な清掃や植栽の手入れなどが行われ美しく保たれているとともに、往時の風情を感じてもらおうと毎年「麦」の種播きも熱心に続けられているという。句碑の傍らには投句箱が設けられ、現代の俳人たちからの投句を受け付けている。