中井久夫先生が2022年8月8日に亡くなられたという衝撃的なニュースが飛び込んでまいりました。
このニュースは多くの新聞で報じられ、統合失調症研究や「兵庫県こころのケアセンター」設立といった「精神科医」としてのご功績が中心に報じられていましたが、執筆と翻訳活動を通して授与された先生の「文化功労者」としての功績も報じられておりました。
私も近現代のギリシア文学を研究する者として、分野を跨いだ膨大なご業績の中でも近現代ギリシア詩のご翻訳について書かせていただくことで、中井先生のご逝去を偲び追悼させていただきたいと思います。
中井先生の現代ギリシア詩のご業績の中で重要なものとして、みすず書房より1988年に刊行された『カヴァフィス全詩集』を挙げないわけにはいけません。ここで翻訳されたコンスタンディノス・カヴァフィスは「今日ギリシアだけでなく世界文学の頂上にいる詩人の一人だとみなされ」得る詩人であり(Χ. ロマス)、二十世紀のギリシア詩に書く革新的な影響を与えた人物であります。先生はこの『カヴァフィス全詩集』をもって1989年に読売文学賞を、更に91年にギリシア国において文学翻訳賞を受賞されました。
後の2008年に同じくみすず書房より茂木政敏先生との共訳で刊行されたロバート・リデルによる伝記『カヴァフィス 詩と生涯』のご翻訳からも見て取れるように、このご翻訳は、カヴァフィスの思想と詩情を表現するための美しい日本語を探すということのみならず、学問的な見地からもカヴァフィスを探求する努力と熱意に溢れた力作であり、外国詩翻訳のお手本として座右に置いておくべき一冊です。
私も現代ギリシア文学の研究と翻訳に携わる者の一人として、このご翻訳のみならず、他にもヤニス・リツォスの詩集『括弧』(2014)や『現代ギリシャ詩選』(1985)といった現代ギリシア詩のご翻訳には多大な薫陶を受けました。
「精神科医」としての中井先生には多くのお弟子さんがいらっしゃり、先生の残したご功績が日本、そして世界で引き継がれ大きな影響を及ぼしていることと思いますが、私も、先生の現代ギリシア文学研究を陰ながら引き継ぐものの一人として、遠い先に見える先生の後を追い、現代ギリシア文学の翻訳と普及に努めていきたいと思います。