YS-11は、日本の航空技術陣の力を集結して生み出された第二次世界大戦後初の国産の旅客機だ。
日本航空機製造(NAMC:Nihon Aircraft Manufacturing Corporation)によって182機が生産されたYS-11は、2006年9月30日、日本エアコミューターの3806便のラストフライトをもって日本国内の民間定期路線より引退した。
そんなYS-11をギリシャのオリンピック航空がはじめて購入したのは1970年。老朽化したダグラスDC-6およびDC-3の段階的な更改のため、当初5機のYS-11A(YS-11A-301、220、500)を取得。その後合計で10機のYS-11を導入した。
オリンピック航空に導入されたこれらYS-11にはそれぞれ「ケファロニア」「イサキ(イタキ)」「サモスラキ(サモトラキ)」「ザキンソス(ザキントス)」「ディロス(デロス)」といったように、ギリシャの島々の名が付けられた。
機体は1970年4月から6月にかけて、3回に分けて納入。こうしてオリンピック航空に導入されたYS-11Aは、1981年ギリシャの国内線での運用が終了するまで使用された。
11年間にわたるオリンピック航空の国内線での運用期間の中で、YS-11Aに関する痛ましい事故は2度起こっている。
1度目の事故は1972年10月21日。この日、悪天候の中空港への着陸に失敗したオリンピック航空のYS-11Aがアテネ南方・ブーラの海岸地帯に墜落。56名の乗客乗務員のうち19名が救出された。
2度目の事故は1976年11月23日。アテネ-ラリサ-コザニを結ぶオリンピック航空830便がギリシャ北部のコザニ近郊に墜落。乗客乗務員のうち50名が亡くなった。

1981年オリンピック航空は、国内線を引退したYS-11をギリシャ空軍・第356飛行隊(356 Squadron)へ譲渡。このうちの1機はVIP専用機として、残りの機体はベトナム迷彩に塗装され運用された。